逃げじゃないのよ、宿題だから―スナックノンノン第4夜
不器用なママが自分の話を語る「スナックノンノン」。
今夜は前職を辞めるときに味わった気持ちを書いてみました。「会社を辞めたいけれど、“合わないから辞める”は、逃げなのかな」と思っている人に読んでほしいと思います。
*
前職で休職していた時期に、部署異動して数カ月だけ復帰したことがあった。営業部から人事部への希望を出し、無理に通してもらったものだった。
しかし、人事部は人が足りていて、頼んでもらう仕事はいつもすぐに終わってしまう。デスクに座っているだけのわたしを見て不憫に思ったのか、上司が「用があるときは佐々木を使ってください」と他の部署の人に働きかけてくれて、その日からわたしは「何でも屋さん」になった。
あるときは荷物を運び、あるときはプロダクトにアイロンをかけ、あるときは代行発注をする。ルーティーンではなく、あちこちに呼ばれて、いろんな人と働くのは楽しいなと思った。
中でも一番仕事をくれたのは、総務部の永田さんという女性だった。
永田さんはいつも穏やかで、優しかった。部署こそ違ったけれど、営業時代にも伝票の書き損じの処理をお願いしに行くことがあったから、以前から顔を合わせる機会は多かった。
毎日毎日書き損じた伝票を持って謝りに行くのだが、そのたびに「あんまり頑張りすぎないでね」と笑顔で言ってくれた。
わたしが「あの人ムカつく」と、愚痴をこぼしても黙って聞いてくれ、
「気持ちはわかるわ。でもね、あの人も良いところがあるのよ。それに、あの人が赤ちゃんだった時代を思い浮かべたら、何だか心が落ち着いてこない?」
と言った。当時のわたしは腹が立っていたので、あまり釈然としなかったのだけど、絶対に人の悪口を言わない永田さんのことを尊敬していた。
そんな永田さんと仕事ができるのは、嬉しかった。でも、わたしに任された仕事は、来客にお茶を淹れて出すだけの仕事だった。
生意気なわたしは最初、「何でわたしがお茶汲みなんて」と本気で思っていた。だってお茶汲みしたって売り上げにならない。散々休んでおいて、わたしはまだできるなどと思っていた。
そんなわたしの気持ちを悟ってかそうでないのか、永田さんは、こう言ってくれた。
「お茶汲みって言ってもねぇ、奥が深いのよ。器を温めて、温度を測って、タイミングもあるし、来てくださったお客さんに気持ちよく過ごしてもらうための重要なお仕事なんだから。ののかちゃん、頑張ってね」
事実、わたしはお茶汲みを完璧にこなせなかった。何度やっても、できない。そんなとき永田さんはきまって「気にしなくていいのよ、まだまだ先は長いんだから、ゆっくり頑張っていこうね」と言ってくれた。
わたしは「ありがとうございます」と言ったけど、小さい声しか出なかった。1カ月後に、退職が決まっていたからだ。
永田さんにはずっと言わなきゃいけないと思っていた。だけど、いつも「まだ先があるからゆっくりでいいのよ」と言ってくれる永田さんの優しさに応えることができない自分が辛くて言えなかった。
そんなある日、永田さんが夜ご飯に誘ってくれた。連れていってくれたのは、蕎麦屋さんだった。
その日はいつになく緊張していて、蕎麦を注文して開口一番「永田さんごめんなさい、わたし会社辞めるんです!」と言った。すると永田さんは「そっかぁ、やっぱりそうなのね」と言って、「何となく“そうかな”と思っていたから、今日誘ったの。言いにくいこと言ってくれて、ありがとうね」と言った。どこまでも優しい人だなぁと思った。
言い終えてすっきりしたけれど、わだかまりが残っているのがわかる。お茶を完璧に淹れられずに終わってしまうなぁと思った。その日の蕎麦はおいしかったけれど、少し、しょっぱく感じた。
蕎麦屋を出ると、「ののかちゃん、とっておきのヒミツの場所、付き合ってくれる?」と言って、行きつけだという秘密の場所に連れていってくれた。細い坂道を上がっていくと現れる、文字通り隠れ家みたいな場所だった。
暗い部屋にぼんやりとランプが点いている雰囲気のある店で、わたしは少し緊張してしまった。名前は忘れたけど、とてもきれいなカクテルだったのを覚えている。
永田さんはイチゴ味のカクテルを飲みながら、静かに自分の半生を語りだした。
穏やかに見える永田さんは、ドラマ以上にドラマチックな半生を歩んでいた。そして、今では仕事をそつなくこなしている永田さんの若いころは、わたしと同じくらい不器用だった。
「いくつになってもできないことだらけよ、ミスもするしねぇ。でも、ひとつずつクリアしていけばいいと思うのよ。できないことがまだあるからわたしは会社を辞めないで、毎日頑張ろうって思えるし」
――できないことがあるから、会社を辞めない。
濃く淹れすぎてしまうお茶
修正印で真っ赤な伝票
これまでの失敗の数々が、わたしの頭をかすめ、胸をチクリと突いた。いてもたってもいられなくなって、わたしは言った。
「永田さん、わたし、何回教えてもらっても、お茶がうまく淹れられないんです。伝票もミスなく書けないし、席次も覚えられないし、先輩に気の利いたことが言えないし、辞めるまでの1カ月で完璧にこなせるとも思えない。そんなわたしが会社を辞めるのは、やっぱり良くないことですよね」
すると永田さんはいつも以上に優しい顔をして、こう言った。
「ダメなことなんてないのよ。今回の課題は、今のののかちゃんには少し難しかったのかもしれない。そういうときはドロップアウトしていいの。それは悪いことじゃないわ」
――やっぱり、わたしは逃げてしまったんだ。
ドロップアウトという言葉に押しつぶされそうになる。そんなわたしの気持ちを汲んでか、永田さんはわたしの手を握り、「だけどね」と続ける。
「今回ののかちゃんがクリアできなかったことは一生避けて通れるわけじゃないのよ。“人生の宿題”を後でやることにしただけなの。夏休みの宿題って先にやってしまおうが、最終日にやろうがなくなっちゃうわけじゃないでしょ? いつかやるんだから逃げじゃないのよ。大事なのは、いつかまた宿題が形を変えて現れたときに、それを超える強さを養っておくことよ。働く場所が変わっても強く生きていってね、ののかちゃん」
――逃げじゃない
その言葉が、わたしのギリギリの自尊心を支えた。
――わたしは逃げたんじゃない。宿題を少し先延ばしにしただけなんだ。
そう思うだけで不思議と心が軽くなった。
「永田さん、わたしは今回の宿題をクリアできる日が来るんでしょうか」
そう聞くと、永田さんは握った手に力を込めて、
「大丈夫よ。生きていれば必ずクリアできるわ。だから、長生きしてね」
と言った。
*
永田さんとはアドレスを交換したけれど、退職する日に会ったっきりになっている。そして、わたしは相変わらず席次を覚えられないし、気の利いた雑談をできずに、引き続き宿題を後回しにして生きている。
永田さんはいつか宿題を片付ける日が来ると言ったけど、もしかしたらわたしはこのまま宿題を先延ばしにし続けて、締め切りを踏み倒し死ぬかもしれない。
だけど、思うのだ。
恐らくはすべての宿題をクリアする必要はない。できないことがあってもいい。永田さんもそのことはわかっていたんだと思う。だけど「逃げ」という言葉に敏感だったわたしに、あえて“宿題”をくれたんだと思う。
だから、“逃げる”自分が苦しい人には、宿題をあげたい。
今、クリアできなくても大丈夫。
夏休み最終日までに、ゆっくり片づけていこうね。
*
逃げる自分や、できない自分を認めるのって怖いですよね。
辛かったら逃げちゃってもいいんですけど、逃げるのが嫌なら後回しにしちゃいましょう。どうせ後でやるんだから。とにかく絶対、無理しないでね。
みんなの気持ちが少しでも楽になりますように。
辛くなったら一緒に飲もう。
今日もビールで乾杯ね。
(文・佐々木ののか)