お年玉を渡す大人の気持ち…今なら分かる|徒然花
みなさま、あけましておめでとうございます。コラム・徒然花、今年最初のテーマは「お年玉」です。
お年玉をあげる側に回った私は、そこで初めて大人の気持ちが分かります。
もうお年玉は貰えない……
社会人になって失ったもののひとつに、お年玉があります。
大学生まではギリギリ貰えていましたが、社会人になった途端打ち止めです。当然といえば当然なのですが、やはり寂しいものがあります。
さらに寂しい気持ちにさせる原因が、お正月に開かれる親族の集まりです。学生の弟や、いとこたちはお年玉が貰えます。それを尻目におせちをつつく、私はなんとも寂しいものです。
もっと恐ろしいことは、自分がお年玉をあげる側に回ってしまうことです。大人とは、どんな時でも“渡す側”なのです。
お年玉をあげる大人の気持ち
大人になると、自分の子供はもちろん、親戚の子供にもお年玉を渡したり、入学祝いといった祝儀を渡します。私には独身の叔父がいるのですが、叔父はいつも何かしらの形で私に贈り物をしてくれました。彼いわくそれは義務だからではなく、ただ祝福をしてあげたいと思っているからだとのこと。
お年玉の由来は、新年の神・年神様が宿る鏡餅の餅玉を分け与えてその年の魂を頂くことだそうです。しかし、私の周りにそれを知っている人は皆無でした。
お年玉をあげる理由は、叔父さんのように「相手の喜ぶ顔が見たいから」というようなものもあれば、「自分も昔貰ったから」「お小遣いみたいなものだから」といった声もあります。
今はまだお年玉をあげる相手はいませんが、もしかしたら将来、私にも甥や姪ができるかもしれません。おそらく私は「自分も昔貰っていたから」という理由になると思います。しかし、まとまったお金が飛んでいくのは、本心では辛いと思うでしょう。
まだ自分の子供がいれば、自分の子供ももらうからと思えそうですが、叔父のように独身であれば、そういう発想もできません。それなのに毎年親戚の子供たち全員にお年玉を用意していた叔父。社会人になった今、それがいかに大変だったか、気づくことができます。
人にお金を贈ることができる年齢になったことは、人生におけるひとつの節目です。子供からしたらお正月はただお小遣いが貰える日なだけかもしれません。だけど、大人にとっては、大人になったことを実感できる瞬間なのかもしれません。
(文・駿河慧)